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毀れゆくものの形 |
第 三 章
夏休みの始まった日の朝、早彦は食事を済ませると二階へ上がり、窓を開け放した勉強部屋に閉じ込もっていた。外は雲一つない青空だった。その透明な空を背景にして、強い風の一吹きでもあれば瓦解してしまいそうな、みるからに華奢な竹細工の虫篭が浮かんでいた。 早彦は窓に吊られたその篭の中を覗き込み、ナイフで鋭く尖らせた十二本の色鉛筆をめまぐるしく取り替えながら、細かい一本一本の線や、微妙に色合いの異なるそれぞれの部分を白い画用紙に念入りに描いていた。 陽の光に灼けた篭の中には、病院裏の野菜畑に植わる大根の葉から採取した青虫が、黄色いしみのできた葉と一緒に入れられていた。初めのうちは大根の葉や雑草のように棘々しく青味を帯びてしまった芹などを摘んできて虫の餌に与えていたが、揚羽蝶の幼虫はすぐに蛹化し、野菜屑は虫喰いの跡を残したまま緑色から次第にひからびた色を呈して篭の底にくずおれ、スケッチの数が十枚を越えると、いびつな形状をした蛹が虫篭の天井にぶら下がり、濃い褐色の肌を晒していた。その蛹がこのところ一段と膨みを増してきていた。 早彦は最初の頃、青虫の這い回る姿が気味悪く思われ、部屋の中に置くことをためらい、窓の外の軒下に吊るしていたのだが、しばらくするうち、眠たげに蠢くこの緑色の小さな虫に愛着を抱くようになった。それで窓の内側の棧に釘を打ち、そこから吊ることにしたわけだが、その頃にはもう虫は蛹になっていた。 いってみれば、蛹はミイラだった。早彦は、幼虫が蛹になってしまえば、少なくともその外形に変化が起こるとは思ってもみなかったのだが、毎朝見つめていると、そうでないことが分かってきた。蛹はその内側から衝き上げるような微妙な動きをするたびに、ぶら下がった体の一部分がどこかしら膨れてきて、それと逆に表面はかさかさに乾き、艶をもった鉱物のような褐色に変わっていった。 画用紙に描かれていく虫篭の中の世界は、まるで晩秋のような暮色に溢れていた。黄色という色彩は、緑と合わせて使うと軽快で新鮮な生命の溌溂さという印象を与えるが、茶系統の色と一緒にすると、どこか枯れた老齢を思わせる。早彦はそのような色ばかり使ううちに、この蛹は死んでしまっているのではないかと考えていた。篭の中で喰い荒された野菜はすっかり水分を失い、たしかに陰湿な壊疽のような色をした腐敗を経ることなく、生気の脱け殻のようにミイラとなってくずおれていた。夏の日差しが一瞬にして腐敗から救ったのだ。恐らく、そこにはいかなる生命作用もありえないのだろう。そして、永遠に小さな篭の中でぶら下がりつづけるはずの蛹もまた、強烈な夏の陽光に晒され、ついに崩れ去るのだろう。 早彦は蛹が揺れているのを見ていた。風のせいだろうと思いながらも、描き終えたばかりのスケッチを右側の画用紙の山に重ね、木目の浮き出た机に肘をついて眺めていた。しかし蛹は、篭の天井との接点から揺れているのではなかった。蛹は自分の体の中央の部分を運動の起点にしていた。それは体をくの字に曲げたりするような、唐突でぎごちのない動きだった。蛹は生きていた。そして、その中から恐らく蝶がはばたき出るのだろう。早彦は机の右側に積んだスケッチの上に時刻を書き加え、蛹が動き出す、と記した。その文字の色は、これまでこの観察記録のどこにも用いたことのない赤い色だった。 「蝶々が、ほら」 妹の甲高い声が、居眠りしていた早彦を揺り起こした。尖った頤をつたってこぼれた一筋の唾液が机の上を濡らしていた。半ズボンからはみ出た太股に触れる椅子がひんやりと感じられた。早彦がぼんやり瞼を開けると、傍で五歳になる妹が人差指を突き出していた。その方向を見上げると、虫篭の中に、蛹を破り、くしゃくしゃの羽を引き摺り出そうと苦闘している蝶の姿があった。竹細工の篭が虫の(もが) くのに刺激され、小刻みに揺れ動いていた。 「気味悪い」 もう一度、妹の声がした。振り向くと、妹が色鉛筆を握りしめていた。早彦には、幼い妹がどうしてそんなことを言っているのか分からなかった。何げなく机の上に視線をやると、描き上げたばかりのスケッチが意味のない真赤な線で塗りたくられているのを知った。そして、その線が蛹を崩壊させ、蝶を生み出したかのような錯覚に囚われた。 早彦は理不尽とも思われる激怒に駈られた。その怒りが、肩から腕へ、そして掌へと伝わる明瞭な感覚が走った。それは突風だった。早彦の腕は突風のように旋回し、五歳の少女を殴りつけていた。妹は兄の一撃を受けて、リノリウムの床に這いつくばった。恐怖で呆けたように、つぶらな眸が瞠いたまま滞っていた。 そのとき妹は大声で泣き喚くかわりに、憎悪のこもったまなざしで早彦を射竦めた。それは兄妹にはあるまじき、得体の知れない異物に向けられるまなざしだった。早彦はその凍えるような視線をはねのけるようにして、窓に吊られた虫篭を仰いだ。羽化した黄揚羽が、皺だらけの羽を伸ばそうとよろめいていた。早彦は篭を掴むと吊り紐を渾身の力で引き千切り、小脇に抱えたまま部屋を飛び出した。 白い捕虫網と虫篭を持った早彦は、裏山の中腹にさしかかったところに来ると立ち止まり、そこから下界を見下ろした。墨を刷いたような黒い川が水面を燦かせながら流れていた。山道からは、ゆるやかに蛇行する川に沿ってだらだら続く鶉町の、南北に長い姿が見渡せた。積出し炭を満載した貨車が何十輛となく繋がり、それを牽引する機関車が濛々たる烟をたなびかせながら家々の間を動いていた。そのとき追い縋るかのような長閑な響きを伴って、正午のサイレンが鳴った。 山の裏側に廻り込むと、そこには石切場の跡があり、傍に湧水でできた小さな沼があった。早彦は、このあたりで銀色の蝶を見かけたという噂を耳にしたことがあった。それが銀色の鱗粉をもつ新種の蝶なのか、ただ光線の加減によってそう見えるだけなのか、その話からは知ることができなかった。 沼の向こうには松林が広がり、下生えには斑らな模様をした隈笹が繁っていた。沼の反対側に廻り込もうとしたとき、早彦は畔近くにある松の木蔭で奇妙なものが突き出ているのに気づいた。それは青味がかった、白く細長い穂のようなもので、根元の方が黒ずんだ赤い葉で包まれていた。落葉に寄生する茸の一種なのだろうとは思ったが、まるで死人の指のように見えて不気味だった。 その不思議な植物のそばに近寄ろうとしたとき、鬱蒼とした隈笹の繁みから涌き出るように舞い上がるものがあった。午後の陽光を受け、銀色の光を湛えた一匹の蝶が、中空で眩く輝いているのを早彦は見た。噂のとおり銀色に燦く蝶は、光に包まれた羽をひらひらさせて沼の上を回り始めた。大型の蝶が頭上近くを掠め、薄い二枚の羽が太陽を遮ったとき、早彦は羽を透かした光が紫色であったような気がした。そして、その蝶が烏揚羽の仲間ではないかと思った。 早彦を誘いかけるような仕種を見せて何度か旋回を繰り返した蝶は、空中からゆらゆら舞い降りると光を帯びた銀色の羽を静かに畳み、例の奇妙な植物の突起にとまった。それを見定めると、逸る気持を抑え、早彦は一面に生えた雑草を踏み分けながら近づいていった。松の根方からは青臭い匂いが立ち昇っていた。早彦は捕虫網の白い尾をはためかせ、飛び上がろうとする寸前の銀色の蝶めがけて斜めに振り下ろした。笹の葉の何枚かが乾いた音をたてて宙を飛んだ。早彦はあたりに蝶の逃れた形跡がないのを確かめてから、網を水平に振り、長い嚢(ふくろ) をくねらせて草の上に投げ出した。 峰を伝って郭公の鳴き声が響いた。嚢の中には、あの奇妙な植物も一緒に囚われていた。早彦は蝶を摘み出してみたが、銀色の蝶は黄色い液を吐き、すでに死んでしまっていた。蝶の死体から指先で鱗粉を削ぎ落とすと、その部分だけが紫色に見えた。早彦は屍と化した蝶を沼の上に放り投げた。くるくると不規則に回転しながら落下した蝶が泥土の混じった水に浮かぶと、銀色の鱗粉が溶け出して鮮紅色の液体になるような気がした。そのとき、泥水の中に細かい泡が生じたかと思うと、水音をたてて飛沫があがった。しばらくして波紋が収まると、沼の上の蝶の姿は跡形もなくかき消えていた。早彦は、その濁った水の奥に、脂っこく光る鱗を見たように思った。 奇妙な植物の方は、あの黒ずんだ赤い葉がとれていた。その葉を裏返したりして見ていた早彦は、蝶のように二つに折り畳むと沼の中に放り込んだ。葉は蝶の消えたあたりに浮かんだまま、太陽の光を反射していた。死体の指のような突起の方は、気味が悪くて触る気になれなかった。 北国の夏とはいえ、午後も盛りになると、さすがに暑くなってくる。早彦は裸足になると沼の水に足を突っ込んでみた。べとりとした感触が足を包んだが、その冷たさが幾分気に入って、水を勢いよく蹴り上げると、褐色の泥水が真白な飛沫に変わった。水飛沫が頭上の太陽まで達して落下するとき、空に七色の帯が漂っているように思った。しかし次の瞬間には、頭からずぶ濡れになっていた。早彦は面倒になって、シャツと半ズボンを脱ぎ捨てると、水の中で肩まで漬かり、それから犬掻きを始めた。沼は向こう岸まで十五、六メートルほどの距離なので、難なく往復することができる。けれども数メートルも行かないうちに、早彦はあわてて引き返してきた。沼に浮かんだ水草の蔭で、鉛色の光沢を帯びた鮒が腹を上に向けて死んでいるのを見たためだった。早彦は、裸の肌が妙な違和感に包まれているような気がした。まるで、激しい蕁麻疹にでも襲われているみたいだった。脹脛や脇腹をくすぐる得体の知れない生き物が、水の中に無数に潜んでいるのではないかと思った。 急いで沼から這い上がると、草原を狂ったように転げ回った。泥のついた裸に濃緑の汁が沁み込んでいった。雑草の中には、薄い柔毛を生やし、端が剃刀のように鋭い草が混じっている。気がつくと、早彦の体のあちこちに軽い切り傷ができ、そこから血が薄く滲み出ていた。 松林を外れた傍に小さな畑があった。その一画に、畑の玉蜀黍や豌豆に給水するため、水道管が引かれていた。木の杭に蛇口を括りつけただけの簡素なものだったが、早彦はそこで汚れた体と衣服を洗った。 早彦は捕虫網を放り出してあるところに戻ると、濡れた服を草の上に広げて、松の木の下で寝転がった。青空が、きらきら輝く光のせいで罅割れてゆくような気がした。何げなく、白い網の中に残されているあの奇怪な植物を取り出してみた。それはひんやりとして冷たかった。肉穂花序のようにぶつぶつしていて、ヤングコーンを繊細にしたように柔かだった。青白いと思っていたのだが、手にとるとほんのり黄みがかっていた。鼻を擦り寄せると甘い匂いがして、早彦は脳の芯がぐるぐる回るような感覚に囚われた。 肌寒さを感じて目を覚ましたとき、空では細かく千切れた夕焼雲が急速に翳りを帯び始めていた。山の中は夜を迎え、深々として物音ひとつ聞こえず、紺色の空に浮かぶ月が次第に色づき始め、いっそう凄寥としてきた。そのとき、林の奥から鋭い悲鳴が迸った。早彦はあわてて飛び起きたが、まだ裸のままなのに気づいた。裸のまま立ち上がり、薄暗闇に呑まれた林の奥にじっと目を凝らした。そこから甲高い叫びが数度涌いたが、早彦の目には何も捉えられなかった。山奥に潜む魔物の一族が騒ぎたてているような気がした。しばらくすると、それは激しい女の泣き声に変わった。 早彦はこのあたりに誰かがいるのだと思った。そう考えているとき、ふっと女の泣き声がかき消された。耳を澄ましてみたが、暗い松林は異変を暗示する静寂だけを残していた。魅入られでもしたような強い好奇心に囚われると、早彦は足音を忍ばせ林の中に踏み入った。背を跼めて隈笹の繁みを手探りで掻き分けながら闇の中を進んだ。確かに、その向こうに人の気配がした。かすかだが、苦しげに息つく音が伝わってきた。早彦は静かな動作で、一本の木の蔭に裸体を滑り込ませた。 湿気のある黴臭い空気が漂っていた。早彦は林の中をずいぶん奥深くまで侵入していた。ようやく闇に馴れた目に浮かんだのは、叢の中で縺れて蠢く人影だった。顔ははっきりしないが、男の方が女の方を下にして蔽いかぶさっていた。そして、頻りに首を振る女の口に何かの布きれが押し込まれているように見えた。 西陽の没しきったのが梢の色の変化から窺われた。林の奥は完全な暗闇と化していた。男の低い唸り声が徐々に獣のような咆哮に変わり始めた。笹の葉の擦(こす) れ合う音が忙しくなった。そのとき、重なり合った枝の破れ目を縫って冴え冴えとした月の光が射し込んだ。早彦は二人の下半身がすっかり剥き出しにされているのを見た。そして、男の体の位置が変わるたびに、月光に晒されては明瞭に浮かぶ、二人の体毛に包まれた箇所から目を逸らすことができないでいた。肉体の、あまりに単純で猥雑な仕種に魅了されていた。早彦は自分の性器が脹れ上がってきていることに気づかなかった。 早彦に背を向けている男は、女の細い脚を片手で抱えながら激しく動いていた。青白い月の光がその光景を妖しく映し出し、あたりの闇だけが静謐を湛えていた。光の輪と暗がりの境界で何かが鋭く光った。早彦がその白い光を見定めようとしたとき、月光は松の梢によって遮られ、闇が戻るのと一緒に叢の中の光も失われた。ふさがれた女の口の端から洩れる息が間歇的になり、抑えがたいほど煽情的なものに感じられた。早彦は木蔭から裸体を現わすと、闇に乗じてするする忍び寄り、叢を貫いて地面に突き刺さっているものを引き抜いた。蝋を握りしめたような滑らかな感触がして、掌にすっぽり収まった。 月が再び顔を見せたのはそのときだった。月光を浴びて立ちつくす早彦を、押し拉げられた女が驚愕の目で捉えた。初めて出会ったその目は助けを求めるどころか、次の瞬間、みるみる恐怖の色に染められていった。女の視線は早彦の腰に釘づけにされ、そこには今にも破裂しそうなほどおえきった性器があった。早彦は自分の股間を見て動顛した。頭の中を走る熱いものが何によるものなのかは分からなかった。しかし、自分が何をしようとしているのかを、突然に霧のような曖昧さで知った。 早彦は両手で登山ナイフを握りしめ、頭上に振りかざすと、青い光の中に裸体を躍らせ、男の背中に深々と突き刺していた。女の白い下肢が激しくわななき、男の腰に絡められた。男は凄じい叫び声をあげると、身を(もが) き、女の体から離れようと試みた。けれど、離れることは不可能だった。その男めがけて、刃物が何度も突きたてられた。後ろを振り返った男の顔に、早彦の体が放った白い澱がおびただしく注がれ、男は濡れた顔を背けて再び女の体に重なると、そのまま絶命した。後ろ手に縛られていた女は、その間中、全身を痙攣させ、鼻孔から泡を吹き、身をのけぞらせていたが、早彦が気づいたときには、すでに苦悶の表情を浮かべて窒息していた。 早彦は男の死体を押しのけると、女の口に詰めこまれていた下着を引き摺り出し、それで血に塗れた女の細い顔とナイフの象牙の柄を拭い、かすかな笑いを洩らすように唇を歪ませた。充血した眸が妖しく炯った。早彦は女のまだ生温かい死体に蔽いかぶさると、依然として勢いを衰えさせない自分の性器を握った。月光の加減でそう見えるのか、叢に映る影が一角獣のように不気味だった。 林から出て来た早彦は、捕虫網の中に戻しておいた奇怪な植物の突起を沼の上に放り投げた。それから、血だらけの体を水に沈め、口笛を低く洩らしながら、その突起の浮かんでいる方へと進んでいった。夜空ではいつのまにか月が赤く爛れ、水の面を同じ色合いに染め始めていた。沼に棲む蛙の群が不吉な鳴き声を発した。 |
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